第29話「昭和の東京五輪と発展する熱海」

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ページ番号1011951  更新日 令和4年2月22日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

「あたみ歴史こぼれ話」第29話
「あたみ歴史こぼれ話」第29話 昭和の東京五輪と発展する熱海(令和3年(2021年)9月号掲載)


※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧下さい。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止いたします

 

 

・高度経済成長期における熱海のホテル・旅館の発展の様子が、『熱海温泉誌』〔「熱海における旅館業の成立と発展」(執筆 大久保あかね氏)〕に掲載されておりますので、一部を抜粋して紹介いたします。

以下、原文のママ

 大火後の熱海温泉の復興は、『最新熱海温泉全鳥瞰(ちょうかん)図』の裏書に書かれているように、熱海温泉地区旅館百五十余軒(宿泊料一〇〇〇~三〇〇〇円)、伊豆山温泉地区旅館二二軒(宿泊料一〇〇〇~二五〇〇円)、泉温泉地区旅館一五軒(宿泊料一〇〇〇~二五〇〇円)、南熱海温泉地区旅館一九軒(宿泊料一〇〇〇~二〇〇〇円)と、市内には二〇〇軒以上もの旅館が存在していた。熱海温泉地区に限定しても、熱海市庁舎復興落成を記念して一九五三(昭和二八)年に刊行された『熱海』巻末の「観光案内」頁には熱海温泉旅館組合の名簿があり、そこには一五七軒の加盟旅館が記載されている。 

 戦後早い時期から急増した旅行形態として、新婚旅行が挙げられる。

 一九五一(昭和二六)年三月三一日から運行開始した準急電車 「はつしま」は土曜日限定運行であったが、車両は熱海・伊東を目指す新婚旅行客で埋め尽くされていた。この頃に川端康成が発表した随筆『伊豆の旅』にも、

 東京から熱海の間を走る列車を「ロマンスカァ」と言うそうで、なんとも洒落た名前ではないか

 との一文があるほどであった。

 この頃の熱海では、つるや、壽館、高砂屋など縁起の良い名前の旅館が新婚旅行で人気があったという記述も見られる。その後、宮崎県が新婚旅行先の定番になるまで、熱海への新婚旅行ブームは続いた。

旅テル(旅館+ホテル)の登場

 高度経済成長期がはじまる一九五〇(昭和二五)年頃から農協・婦人団体・家族旅行などが増加した。このように多層化した顧客に対応するために、全国の旅館は設備の拡大に取り組み、娯楽施設・遊園施設・売店部などを館内に設置しはじめる。

 全国の旅館のモデルとなったのが、温泉文化都市整備法後に熱海温泉に建設された大規模旅館の数々である。熱海温泉にはそれ以前にも一九三五(昭和一〇)年前後に開業した「大野屋」や「つるや」という大型旅館の成功事例があった。その事例から学んだ熱海の旅館経営者たちは、大火後の整備法の後押しを受け、防災・耐火建築の大規模旅館を建設していった。
 この時に誕生したのが、外観はホテルのような近代的な設備、客室は日本人になじみの深い和室、そして多様な顧客の需要に応えるために娯楽施設や遊園地、土産物などの物販施設などの館内設備を充実させた旅館である。これらは当時、旅館とホテルの複合的な施設として「旅テル」と呼ばれていた。
 都内の大手私鉄会社も熱海に資本投下を始め、一九五九(昭和三四)年に小田急電鉄の「来宮ホテル」、一九六〇(昭和三五)年に西武鉄道による「西熱海ホテル」などの「旅テル」が相次いで開業した。
 つまり、日本の景気が上昇傾向に向かう段階で、熱海温泉にはすでに大勢の観光客を受け入れるための最新の受け皿が整っていたことになる。そこに大手旅行社による大規模な招待旅行や社員旅行の送客が加わった。
  その結果、熱海温泉の観光入込み数は一九六一( 昭和三六)年に一一五〇万人となり、全国一位を記録する。同年の二位は別府の五七〇万人、三位は伊東の三一四万人(注9)なので、この時期の熱海温泉は圧倒的な集客力を持っていたことがわかる。

レストランシアター

 熱海温泉で誕生した革新的な旅館サービスの一つに、レストランシアターがある。

 最も特徴的なレストランシアターは、一九六四(昭和三九)年五月に開業した「熱海静観荘」のものである。たとえば、当時の雑誌『旅』のカラー全面広告ページには、「アタミでハワイを楽しもう」「ハワイご招待!」「御招待方法は静観荘提供番組でお知らせします」「常夏のハワイからフラ・ダンサーを招いて、全館にハワイ・ムードがいっぱい」という宣伝がなされている。
 本格的なショーを眺めながら夕食を楽しむというレストランシアターは、熱海では静観荘が最初に導入したサービスであった。一日二回のハワイアンショーに加えて、深夜のナイトショーには、東京有楽町の日劇ミュージックホールのダンサーを招いている。またレストランの接客にはゴールデン赤坂やミカドといった当時一流と評価されたクラブからマネージャーやボーイを集めたという。経営者の中沢和夫は、本格的なエンターテインメントを熱海の旅館で実現したことになる。
 その後、レストランシアターは、食事時間の調整やサービスの省力化など経費節減に役立つとして、全国の多くの旅館に導入されていくが、静観荘のシアターは、それらとは一線を画する本物志向だったと言えよう。
 同じ年、一九六四(昭和三九)年に洋室を中心に最大収容人員一二〇〇人で開業した「ニューフジヤホテル」でも、開業翌年には静観荘と同様の路線でレストランシアターを導入し、サーカスやアイススケートショーも取り入れている。
 さらに一九六五(昭和四〇)年八月一日に開業した「熱海後楽園ホテル」は、ホテル、レストランセンター(ショウと温泉)、遊園地の三つの要素からなる複合施設として、熱海温泉への家族旅行の誘致に大いに貢献することになった。熱海後楽園ホテルは開業後一年間で宿泊人数九万七〇〇〇人、日帰り立寄り客一三〇万人、遊園地利用者は二八万人を記録している。(注10)
 その時期には、その他の各旅館内の設備も急速に充実していく。その一例として、表3でわかるように客室内のバス・トイレの整備が挙げられる。市内の下水道の敷設などの社会資本整備が進んだことが、レストラン、喫茶・売店やビリヤード、バンド、温泉プールなどの娯楽性の強い付帯設備の整備に結び付き、旅館の空間の快適化、エンターテインメント化を促進させていった。

 

【注】
  9 『熱海歴史年表』一六四頁

10 『熱海市史』四九〇-四九一頁

 

 

昭和の東京五輪宿泊対策資料

「東京都オリンピック協力旅館」の推薦について

発出文書2

・昭和37年1月11日付け、東京都オリンピック準備局長より国際観光旅館連盟ほか二団体への協力依頼文書があります。

 

 

オリンピック協力旅館調査について

・東京オリンピック開催に伴う、宿泊施設調査依頼文書です。

 

 

オリンピック宿泊対策に関する打ち合わせ

・東京オリンピック外客(外国人)宿泊対策の打ち合わせについて、国際観光旅館連盟伊豆箱根支部より各地区の会員宛への文書です。

 

 

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
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