第2話「人車鉄道にも軽便鉄道にも乗りたくない!」

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ページ番号1009093  更新日 令和2年7月28日

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あたみ歴史こぼれ話(本編)

あたみ歴史こぼれ話第2話の画像
「あたみ歴史こぼれ話」第2話(令和元年(2019年)6月号掲載)

※広報あたみの原本をご覧になりたい場合は、
以下のリンク先からご覧ください。

あたみ歴史こぼれ話―本編の後に

このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で
掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。
本編を読み進んだ後に、ご覧ください。

※このページで掲載されている画像は、閲覧のみ可能といたします。
 画像の保存、複製及び使用は禁止といたしますのでご遠慮ください。

【「豆相人車鉄道」について】

 この鉄道計画に参加した人々は、茂木惣兵衛、高島嘉右衛門、雨宮敬次郎、
 大倉喜八郎、平沼専三などの実業家と、石渡喜右衛門(富士屋)、
 樋口忠助(気象万千楼)、露木準三(香霞館)などの当時の熱海の
 一流旅館主でした。

 開業は、熱海から吉浜までの間が明治28年(1895年)7月、吉浜から
 小田原までの間が明治29年(1896年)3月で、全長25キロメートルの単線。
 熱海と小田原(早川口)の間に伊豆山、門川、吉浜、城口、江の浦、
 米神などの停車場が設けられ、路線の約半分の13キロメートルは
 熱海街道(ほぼ現在の国道135号線)上を通っていました。

 熱海・小田原間の運賃は、上等車1円、中等車60銭、下等車40銭で
 明治33年(1900年)9月の運賃表によると、1日6往復運転されました。
 

【「軽便鉄道」について】

 人車鉄道のレール幅を610ミリメートルから762ミリメートルに拡げ、
 明治40年(1907年)12月から蒸気機関車1両、客車(定員36名)1両の
 編成で営業運転を始めました。大正2年(1913年)4月の時刻表によると
 1日7往復運転され、熱海・小田原間の所要時間は2時間20分ほどで、
 例えば新橋を午前8時30分に出発すると、国府津と小田原で乗り換えて、
 午後1時18分には熱海に着くことができました。
 (当時の東京・熱海間の所要時間は5時間弱でした)

 大正9年(1920年)、国鉄熱海線が建設されることとなったため、
 軽便鉄道は政府に補償買収され、熱海線工事の進行とともに運転区間が
 短縮されていきましたが、最終的には対象12年(1923年)の
 関東大震災により線路や停車場が壊滅的打撃を受け、廃線となりました。

豆相人車鉄道時刻表の画像
「豆相人車鉄道」時刻表(明治30年(1897年)10月1日改正版)
軽便鉄道の時刻表の画像
「軽便鉄道」時刻表(明治44年(1911年)5月1日改正版)
(出典:豆相新聞 明治44年6月27日発行)
人車鉄道・軽便鉄道小田原駅から米神駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「小田原駅から米神駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道根府川駅から吉浜駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「根府川駅から吉浜駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』)
人車鉄道・軽便鉄道真鶴駅から伊豆山駅までの画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「真鶴駅から伊豆山駅まで」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道・軽便鉄道熱海駅周辺の画像
人車鉄道・軽便鉄道駅及び軌道「熱海駅周辺」
(出典:『ガイドマック 豆相人車鉄道歴史街道物語』」)
人車鉄道の熱海停車場の写真
人車鉄道の熱海停車場(提供:今井写真館)
軽便鉄道の画像
軽便鉄道(提供:今井写真館)

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 生涯学習課 網代公民館 歴史資料管理室
〒413-8550 熱海市中央町1-1
電話:0557-48-7100ファクス:0557-48-7100
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。